民間人のくふう

屋上とスピッツとジャニーズが好きなヤツの雑談

ラーメンズが好きだったおかげで局長に褒められた(多分)

人生が変わる音がした。

今から2年前。社会人8年目の春のことだ。

 

 

私が就職したのは、テレビの、報道メインの制作会社。

社会人のスタートは「AD」だった。

配属されたのは、平日に毎日放送している報道番組。

その中の、小じんまりとした1コーナーの担当になった。

 

日々のトップニュースを扱う “本体” は、ディレクターが30人以上の大所帯。ADも10人以上いて、日々発生するニュースにてんやわんやだ。仕事はかなり多く、とっさの判断が求められる。ADといえど時には取材にも行く。早く認められたい、Dになりたいと、みんな切磋琢磨している。

 

次に大きい班、企画担当班は、人数こそ半分程度だが、ADの担当はかなり重い。ほとんどDと同じような仕事が求められる。取材のアポ取り、打ち合わせ、密着取材、原稿書き。グルメの美味しそうな映像をこだわって撮るのも、この班だ。そして超・長時間勤務。みんな2〜3日徹夜なんて当たり前だった。

 

一方、私の担当は、トップニュースには漏れた、ショートニュースのコーナー。デスク1人、D2人、AD3人の小規模な班。取材には出かけず、既にあるニュース原稿をDが短くする。そしてコーナーの最後は、海外のおもしろニュース。どこかで生まれたパンダの赤ちゃんや、衝撃映像を、短く2本。

 

というわけで、私の仕事時間の多くは、海外ニュース映像についている、英語の説明を日本語にすることに費やされた。同期が政治ニュースに詳しくなったり、1個上の先輩が取材に出て大きな成果を上げて褒められたりしている間、ひたすら読めない英語を、辞書と首っ引きで訳していた。

 

とはいえ、当時の私は向上心が強かった、同期や先輩に対して敵愾心を抱いていた。”本体”には「何か仕事があったら取材に行かせてくれ」と頼んでいたし、プロデューサーのところに乗り込んで「企画担当に異動させて欲しい」と直談判したりもした。

 

3年目。どうにか企画担当に滑り込むと、他のどのADよりも多く企画書を出した。偉そうなDに「生意気だ」と言われながらも、どうにか1本、企画をやらせてもらった。そしたら信用されて、Dの企画の一部を、何本か作らせてもらった。残業時間は月350時間を超える事もあったが、ひたすらやりがいがあった。プロデューサーから「お前をDにしたいけど、まだ先輩にADがいるから、半年だけ辛抱してくれ」と言われた。そして3月の東日本大震災。報道志望の人間からすれば絶対に関わりたい仕事。特に私は地元で、阪神大震災を経験していた。だからどうしても現場に行きたい。今しかない。いま、何かを掴みかけている。今この瞬間に、たくさん経験を積みたい。今だ、今しかないんだ。

 

 

翌月。

私は、会社の意向で、他部署に移った。

「あと半年でDにしてもらえる」と訴えても届かなかった。

会社は私に”秘書” 的なことをやって欲しかったらしい。

4〜5ヶ月間、ひたすらコピーと、お届け物と、お菓子の買い出しをした。

企画書を作ったら「誰か知り合いにあげれば」と言われた。

 

結局、その部署からは半年で出て、ほとんど取材にいかない部署の記者になった。1日に2回も3回もオンエアが来る。そのたびに、ニュースを放送する。誰かが書いたニュースを、誰かが撮った映像で。そこで3〜4年を過ごした。

 

次に異動したのは報道系教養番組。そこも、自分では取材に行かない番組だ。ほとんど机に向かっている。最低週3回徹夜と、これまでのどの部署よりも勤務時間的にはハードだったが、「疑似生放送のトーク番組」だったこともあって、あまり「ものを作っている」感覚はなかった。

 

そして、今から2年前。社会人8年目の春。今の番組に異動した。

報道メインの情報番組。週1回のオンエアにむかって準備し、放送する。

1年めにいた報道番組は「全員で毎日」オンエアしていたけれど、この番組は、担当は週1。そのかわり、ひとりの責任が重くなる。VTRの担当分も長い。

そして、これまで、割とそつなくやってきたけれど、ここで挫折を味わった。

 

Dとしては班の最年少。なのに、トップニュースを振られることもある。ほとんどストレートニュースしか書いてこなかったのに ”目線” を求められる。

そしてチーフDは厳しかった。

原稿が遅い、と怒鳴られる。書いている内容がつまらない、と怒鳴られる。取材がうまくいっていない、と怒鳴られる。100人以上がいる広いフロアに響き渡る声で、お前こんな事でいいと思ってるのか、プロ失格だ、今まで何やってきたんだ、全く面白くない、ダメだ、やり直し、全部書き直せ、、、。

 

そんな時。

同じ班の、2つ年上の男性Dと、ほぼ初めて喋った。

そのひとは、私の次に年少ながら、作るVTRが面白いと信頼されてる人だった。その日も、VTRが面白かったと反省会で褒められていた、その後だった。

 

偶然、その男性Dが、手に小林賢太郎さんの舞台のバインダーを持っているのが見えた。

ラーメンズ好きなんですか?」

 

それが私の転機だ。

 

よくよく話してみると、そのひとは、私と好みがかなり似通っていることがわかった。

ラーメンズが好き。魔法陣グルグルが好き。クロスバー直撃が好き。リアル脱出ゲームが好き。水曜日のダウンタウンが好き。

そして仲良くなった。人見知りで、これまで(割と)同年代に心を閉ざしていたのに、その男性Dには妙な安心感があり、本音で話すことができた。VTRの相談もする。くだらない話もする。多分、人生で初めて心を開いたと思う。

 

この企画はどうするべきか?何を立てるか?どういう見せ方がいいか?何度も話し合ったこと。

ロケに連れて行ってもらって立ち振る舞いを学んだこと。

こっそり男性Dが撮った映像を見て、完成までの過程を知ったこと。

大量の映像を徹夜で丁寧に確認している姿。

ひとを信用すること。

そして、心を開いてたくさん話したことで、視界が開けたこと。

 

きっと全てが絡み合って、いつの間にか、VTRの作り方が、少しずつわかってきた(ような気がする)。

そして、それに伴って、作るVTRのクオリティも少し、ほんの少しだけ向上して、上層部の信頼も徐々に得られるようになってきた。

 

あんなに厳しかったチーフDなのに、

「チーフDって、あづまさんの事お気に入りだよね」と同僚に言われた。

「お前の書く原稿は安定している」と言われた。

「やっぱりあづまさん、いつも原稿早いね」と言われた。

「企画がどんどん面白くなってきている」と言われた。

 

チーフDに褒められ、プロデューサーに褒められ、部長に褒められた。

そして先日、私の居ないところで局長が私の事を褒めていた、と言われた。

最初は早くここからいなくなりたいと思っていたのに、去年も今年も、異動を引き止められたのだと聞く。

 

男性Dは、すっかり「番組の顔」的な存在になっていて、もう私なんかじゃとても手が届かない存在だし、一緒にロケに行っても上がってくるVTRが面白すぎて度肝を抜かれる。広くみんなと仲が良くて、でも相変わらず私とも気軽に話してくれる。

 

なんだか今となっては夢みたいな2年間だった。

でも間違いなく。

 

ラーメンズ好きなんですか?」

 

あの瞬間が、私の転機だった。